5月27日東京新聞社説 夢物語を現実に当てはめようとする愚かさ

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 5月27日の東京新聞の社説「週のはじめに考える」は「循環に行き止まりなし」というタイトルで、岐阜県のある過疎地区がほぼ全世帯が出資した事業で水力発電をして、地区消費量を超える電力を地元で生産しているという話題を扱っている。

週のはじめにお花畑・・

 この石徹白番場(いとしろ・ばんば)清流発電所は取水した水で発電機の水車を回した後、そのままの量で川へ水を戻していることを強調している。これこそが循環であり、自然を変えるのではなく、自然から借りるということだとしている。

 ちなみに大規模水力発電では取水した水を発電の後も貯水池に貯めて、電力消費を見て余剰な電力がある時は、貯水池から取水する場所まで水を運ぶのが一般的。それによってエネルギーを保存するのである。それもエネルギー効率を考えれば悪くない。また、水不足でダムの貯水量が減った場合の対策という側面もある。この石徹白地区の場合は北陸電力に売電しているから、貯水池をつくって電力消費状況を見て水を上まで運ぶよりも、貯めることなくそのまま流す方がはるかに効率がいい。

 このあたりをとらえて、いかにも大規模水力発電が自然の循環に反しているというようなことを匂わせているのは文章の安っぽさというか、子供騙しのテクニックのように感じる。もちろん個人的にはこの石徹白地区の試みは文明と自然の共存とも言えるような、本当に素晴らしいことだとは思う。ただし、東京新聞はこうも言っていることを見逃してはいけない。

 「日本の電力消費をまかなうには、いかにも非力ですが」。

 問題はここ。東京新聞が扱った岐阜県郡上(ぐじょう)市の石徹白地区は110世帯250人ほどが暮らしているとのこと。一つの地区に250人しかいない人口希薄地帯だからこそ、再生可能エネルギーでカバーできるのは明らか。東京都には約1300万人以上が住んでいる。とてもではないが、その人数の電力消費を賄うだけの自然環境などない。

 石徹白地区の試みは過疎地域でしかも自然エネルギーが利用できる場所だからこそできる、極めてレアなケース。同じ過疎地域でも恵まれた水量の河川がなければ実現できないのは明らかである。

 結局、日本のエネルギー問題の解決には何の役にも立たないのは子供でも分かる話。東京新聞は原子力発電や火力発電は控えめに言っても時代遅れになると言っている。それはその通りかもしれない。また「自然を改変し、地球の一部を枯渇へと向かって消費し、ごみを出し続けるのでは行き止まりになるのは必定」とも書いているが、それもその通り。だから当面枯渇の心配がない原子力でという選択をしている。誰だって放射能の問題がある原子力発電はない方がいいと考えていると思う。

 社説は「日本の電力消費をまかなうには、いかにも非力ですが」の後に「そうした生き方の身近な象徴のように思えます」と続けている。確かに象徴ではあるのかもしれない。でも、現時点、あるいは近い将来に限れば実現は不可能と言ってもいいのも、また事実。結局、この社説は世界の困った問題について「ウルトラマンが助けてくれないかな」と言っているに等しいと僕は思う。

 困ったことに目をつぶって、絵空事(えそらごと)を持ち出し、原子力発電に対するネガティブな感情を読者に刷り込むだけのようなものである、と。原発反対論者の多くは太陽光発電などで電力を賄えばいい、と言ったりするようである。僕は実際にそういう人に会ったこともある。この文章を読んで、深い洞察なしにそう考える人は出るのかなと思ったりする。

 週のはじめにこんな文章を読んで、何か意味があるのかなというのが正直な感想と言うべきかな。

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