東京新聞が11月8日の社説で「安保法制判決 司法は本質を直視せよ」という社説を掲げた。11月7日に東京地裁が安全保障関連法を違憲とする集団訴訟で訴えを退け、さらに憲法判断を避けたことを非難したものである。この主張が何とも理解に苦しむ内容となっている。

■2014年の集団的自衛権行使容認がスタート

東京新聞電子版11月8日付けより

 2014年に安倍内閣は従来の政府解釈を変更し集団的自衛権の行使を容認、それを基にいわゆる「安保法制」が成立した。これに対して全国22の地裁で訴訟が提起されたのである。東京地裁での訴訟は原告1500人余りが「憲法9条に違反し、平和的に生きる権利が侵害された」として国に賠償を求めた。

 前澤達朗裁判長は「憲法からは国民に対して平和的に生きる権利が具体的な権利として保障されているとは解釈できない」として訴えを退けた。その際に憲法判断については「違憲審査は、具体的な事件の結論を出すのに必要な場合に限って行われ、この件について憲法判断をすべき理由がない」とした。

■「付随的違憲審査制」をご存知ないか

 東京新聞はこれに噛みついたのである。

 「この訴訟の本質は、安保法制に対する憲法判断を迫ったものだ。それに応答しない判決は肩透かし同然である。ならば『合憲』と言えるのか。違憲なら止めねばならぬ。その役目は今、司法府が負っている。裁判官にはその自覚を持ってもらいたい。」

 東京新聞は裁判所に憲法判断について上から物を言える存在らしい(笑)。判決文にある「違憲審査は、具体的な事件の結論を出すのに必要な場合に限って行われ」というのは、一般的には「付随的違憲審査制」と呼ばれる。裁判所が通常の司法権を行使するのに必要な場合のみ合憲性の判断をするのである。

 そもそも今回の問題は原告が憲法で保障されていない権利に基づいて賠償を求めたのだから、安保法制が合憲かどうかを論ずる前に「あなた方の主張は認められません」と判断すれば済む話。わざわざ合憲性を判断する必要などない。傍論で憲法判断することはできるかもしれないが、傍論は傍論に過ぎず、何の法的効果も生まない。

 しかも傍論で違憲と判断したら、原告は敗訴しても控訴せずに「司法が違憲と認めた」と騒ぎ立てるのは目に見えている。そうなると一地裁の判断があたかも司法の判断であるかのようにミスリードされていくであろう。それが司法の役割として適切とは思えない。

■東京新聞は「最高裁=ヒトラー」を求めている?

 東京新聞は結局、法令に関して具体的な事件の存在を前提としないで憲法判断をする「抽象的違憲審査制」を採用しろと言っているに等しい。それは司法の権限を肥大化させ、三権分立のバランスを崩すことにつながりかねない。

 つまり、国会が立法する度に訴訟が提起され、最高裁の合憲判決がなければ実質、立法できなくなる。当然、法に基づく行政も司法の判断を待ってからでないとできない。三権のトップに最高裁が立ち、国会も内閣もその指揮下に置かれるに等しい。

 こうした付随違憲審査制をとる理由は「新たな権利の創造や社会全体に関わる政策判断をするのは、立法権の役割であり、司法権の役割でない、と基本的にはいうことができるからである」(憲法訴訟第2版 戸松秀典 有斐閣)とされていることを東京新聞はどう考えるのか。

 国会議員は選挙で選ばれ、そこで多数の支持を受けた者が内閣総理大臣として行政の責任を負う。そうした民意に基づく立法、行政よりも、直接、選挙で選ばれていない裁判官が最高権力者に就くのは、民主主義の否定である。東京新聞は最高裁にアドルフ・ヒトラーの役割を果たせと言っているに等しいように、僕には思える。

 東京新聞の社説は国民主権を否定する暴論と言うしかない。