10月27日にウィルあいち(名古屋市東区)で「日本人のための芸術祭 あいちトリカエナハーレ2019」という展覧会が開催された。「犯罪はいつも朝鮮人」などと書かれたカルタの読み札を展示するなどしたが、ウィルあいちはそのまま展示を認め、会場使用を許可。これに対して大村秀章愛知県知事は2日後の記者会見で「中止を指示すべきだった」と語った。あいちトリエンナーレでは「表現の自由」の守護者とでも言わんばかりの姿勢だった同知事が態度を一変させている。

■トリカエナハーレ「中止を判断できない」でGOサイン

大村知事のためにもう1度

 「日本人のための芸術祭 あいちトリカエナハーレ2019」(以下、トリカエナハーレ)は今夏話題になった「あいちトリエンナーレ2019」(以下、トリエンナーレ)のパロディーというのはネーミングからも明らか。展示作品には前出の「犯罪はいつも朝鮮人」と書かれたカルタの読み札や、韓国の国旗の一部をゴキブリのようなものに入れ替えている作品などが並んでいた。

 ウィルあいちではその利用に際して、利用規約にある「本邦外出身者に対する不当な差別的言動が行われるおそれがあると認められるとき」に該当するのではないかと考えたようであるが、報道によると「中止を判断できない」として催しを続行させたという。また、会場でヘイトスピーチを行わないという約束を取り付けていたとも伝えられた。確かにヘイトに関する言動をしないと約束すれば、少なくとも文言上は中止させるのは難しいように思える。

■大村知事「明確にヘイト」の二重基準

 しかし、10月29日になって大村知事は以下のように語った。「明確にヘイトに当たるのではないかと思います。その時点で中止を指示すべきだった」。

 この発言については、違和感を覚えた人は少なくないと思う。なぜなら、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」に関して、同知事は9月10日付け発表の文書で「もし事前に展示内容を審査し、そのような(筆者注:日本国民の心を踏みにじるもの)理由で特定の展示物を認めないとする対応を採ったとすれば、その展示物を事前に葬ったとして世間から検閲とみられても仕方がなく、いずれにせよ憲法 21条で保障された表現の自由の侵害となることはほぼ異論はないものと考えます。」としているからである。

 今回のトリカエナハーレの作品について事前に展示内容を審査し、ヘイトにあたるという理由で展示を認めない対応を取れば、表現の自由の侵害になるのではないか。その点との整合性がとれるのかというのは、誰しもが思うことであろう。

■どちらも芸術性が欠けるように思える作品

 僕はトリエンナーレもトリカエナハーレも、生で見ていないので伝えられる限りで判断するが、どちらの作品にも芸術性を感じない。そして、どちらも公序良俗に反すると思うし、公開することで会場も混乱する可能性もある。それを理由にどちらの展示も認めないのが、知事として正しい態度であると思う。仮に展示を認めなくても、それらの作品は他の場所、他の時間で公開することが可能であるから、表現に対する制約も比較的緩やかになると考えるのが通常の思考であろう。

 ただ、大村知事が表現の自由の重要性を政治家として強く意識し、トリエンナーレの展示を認めたのであれば、トリカエナハーレについても表現の自由で保護すべきであろう。確かにヘイトに見えるかもしれないが、それが芸術表現なのかもしれない。トリエンナーレのパロディというだけで、芸術の一ジャンルであることは確かだと思う。「ヘイトはこんなに醜いものだ」と示すことで、反ヘイトという精神で作られているのかもしれない。

 仮にヘイトに関する作品を「ヘイトだ!」と決めてつけて展示を認めなければ、それはその後の表現者の萎縮につながることが心配される。実物も見ずに「明確にヘイトに当たる」と断定し、直ちに表現の自由の保護範囲外とするかの如き姿勢はトリエンナーレの時とは正反対のもの。そういう姿勢が多くの国民の不信感の源泉になっていると思う。

■司法の場で決着を、大村知事に法律のレッスンを

 結局、大村知事が強調した表現の自由の重要性は、トリエンナーレの作品が個人的な政治信条に合致しているから、表現の自由を持ち出して保護したのではないかと疑わざるを得ない。その点をトリカエナハーレの主催者は見事に突いてきた。

 こうなったら、トリカエナハーレはもう1度、同じ会館で使用許可を取っていただきたい。記者会見で明確にヘイトだと言ったのだから、大村知事も止めに入るであろう。そうなると表現の自由について司法の判断を仰ぐことが可能になる。とても東大法学部出身者とは思えないレベルの法的解釈をする知事に、法律のレッスンをする絶好の機会であると思う。