ジャーナリストの江川紹子氏があいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」の問題について「ビジネスジャーナル」に一文を寄せた。芸術監督の津田大介氏に対する批判めいたことも書いていたが、同時に展示物に抗議した人々を表現の自由の抑圧者とでも言わんばかりの内容。公費を使って行うことの不当性という問題を全く意識できていない、あるいは言及しないのはジャーナリストとして致命的な資質不足と言われても仕方がない。

■不快なものをスルーできるかで文化的寛容さが決まる?

江川紹子さん、大事なことを忘れてますよ

 江川氏の一文は連載「江川紹子の『事件ウオッチ』第134回」として掲載されたものでタイトルは<【『表現の不自由展』中止問題】津田大介氏による「お詫びと報告」に対して生じる疑問>。この中で江川氏は、少女像や昭和天皇の肖像をバーナーで燃やし、足で踏みにじる展示物へ抗議が殺到したことについて、こう書いている。

 「トリエンナーレ」は限られた閉鎖空間で、しかも期間限定で行われる催しだ。そういう場合、展示物が不快なら、見に行かなければいいだけの話だ。…各企画は、それぞれ別の部屋で展示されているので、この企画展だけを「スルー」するのは容易だ。…少女像や昭和天皇の写真が使われたコラージュが燃える映像で心が傷つくなら、テレビのチャンネルを替える。…わざわざ抗議の電話やファクスを入れた人たちは、そういう「スルー力」が弱いのではないか。文化的寛容さとは、結局のところ、不快なものをどれだけ「スルー」できるかにかかっていると思う。

 江川紹子氏は、少女像等の展示に抗議をした人たちを文化的寛容さがない、他者の異論を認めようとしない人たちと考えているのであろう。少なくとも上記の文章からは、そう読める。確かに抗議した人の中にはそういう人もいたかもしれない。しかし、そういう人ばかりではない。

■忘れてはいけない、河村たかし市長の最初の言葉

 江川氏自身、「報道の不自由展・その後」の展示物について「天皇、憲法9条など、もっぱら政治色の強い課題をテーマにした作品展となった。」と認めているように、極めて政治主張の強い、しかも特定の集団の主張に沿ったものになっているのは事実。そして問題は、そのような特定の主張ばかりを集めた作品を、公費を使って展示することに妥当性があるかという点である。

 自らが信じるところを主張するのは個人の自由に属し、それこそが表現の自由が保障する部分である。しかし、その中で特定の主張、たとえば自由民主党の主張に沿った政治色の強い芸術と称する作品が、税金を使って展示する機会が与えられたら自民党支持者以外は「なぜ、自民党だけ特別扱いなのか。私の払った税金をそんなことに使わないでほしい」と言うに違いない。

 もともと「報道の不自由展・その後」の展示中止を申し入れた河村たかし名古屋市長は「(展示の中止の)理由の一つは、10億(円)も税金を使っているということ」と明言している。つまり、「報道の不自由展・その後」に対する抗議は、表現の自由を制約することが目的ではなく、行政の公平性に対する異議申し立てとしての性格を強く帯びている。少なくとも河村たかし市長はそのスタンスである。ところが江川氏はその点について全く触れずに、抗議する人に「気分が悪ければ、見なければいい」と言い、表現の自由を理解できない不寛容な人間と貶めているに等しい主張を行ったのである。

■問題の本質に迫ることができないジャーナリスト

 今回の展示物を民間のギャラリーと契約して展示するなら、抗議する人間はかなり減るであろう。その点を指摘しなければ、この問題の本質には迫れない。

 江川紹子氏が故意にその点に触れないなら、ジャーナリストという客観性を求められる地位にありながら特定の政治主張に加担する意図があると言わざるをえない。また、その点が問題であることに気がつかなかったというのであれば、ジャーナリストとしての資質に決定的に欠けると言っていいと思う。