京都アニメーションの放火殺人事件(7月18日)で犠牲になった35人のうち25人の身元が発表されていないことについて、京都府内の報道12社でつくる在洛新聞放送編集責任者会議が8月20日、京都府警に対して速やかに公表を求める申入書を提出した。同日、時事通信が報じた。メディアが「殺された人の名前を明らかにしろ」と警察に迫っているわけで、僕は賛同できない。

■あおり運転・傷害事件の被害者情報もない

身元を明かさなければ、報じられないか

 「京アニ放火事件」で京都府警は実名公表について遺族らに意見を求め、了承が得られた10人分のみ発表した。それ以外の犠牲者は公表を控えている。遺族としては「そっとしておいてほしい」というのが正直な気持ちではないだろうか。肉親を失って深い悲しみ、やり場のない怒りが充満している時に追い打ちをかけるような取材攻勢にさらされるのはたまらないという気持ちは十分に理解できる。

 被害者は自ら望んで被害者になったわけではない。自分ではどうしようもできない事情で被害者になり、その上「この人は被害に遭った」とプライバシーに属する部分を意思に反して明らかにされるのは、どうにも理不尽に思える。

 実際に常磐自動車道のあおり運転と傷害事件の宮崎文夫容疑者に殴打された被害者は顔はモザイクがかけられ、未だに氏名は明らかにされていない。それは本人が公表を望んでいないというのが理由であると思われ、メディアもそれを了解して報じている。被害者が受傷しただけなら報じないことを了承するが、死んだ場合は無条件に報じるというのもおかしな話である。死後であってもプライバシーの保護は遺族を含めて必要であり、京都府警が身元を公表しないのは被害者に寄り添う考えとして、僕は支持できる。

■メディアの言い分も分からないでもないが…

 一方、前出の在洛新聞放送編集者責任者会議では「事件の全体像が正確に伝わらない」と懸念を伝えた上で、「過去の事件に比べても極めて異例」として公表すべきとしている。確かに大量殺人の被害者がV1~V35と報じられたら、どこか現実味のない架空の出来事のように感じられてしまう部分はあるかもしれない。その意味で事件の悲惨さが伝わらず、「全体像が正確に伝わらない」という主張は理解できないでもない。

 とはいえ、報道を受ける側としては被害者のことを知らない人がほとんどで「山田太郎・小林花子・鈴木二郎・佐藤雪子…」と被害者の名前が報じられたとしても、それはほとんどの人にとって価値のある情報というわけではない。事件の全体像を伝えるということが、情報の受け手が事件を現実のものとして感じられるようになるということを重要な要素としているのであれば、たとえば性別と年齢、イニシャルだけでも開示を求め、それを伝えることで一定程度の現実感は出せるし、事件の悲惨さを物語る要素となろう。

■年齢や性別だけの開示でも十分では?

 在洛新聞放送編集責任者会議は身元が公開されない状況を受けて、どのように「事件の全体像を正確に伝えられるか」を考えた方がいいのではないか。前述のように性別や年齢等の情報開示を行なって、被害者と遺族のプライバシーを保護し、度を超えた取材攻勢から守ることを考えるべきと思う。決して両立できないことではない。

 すべての情報が開示されていたメディアの既得権に対して、国民レベルで「おかしい」という声が上がっているように、僕には感じられる。