あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」中止問題の余波で、神戸市が8月9日、開催予定だったシンポジウムの中止を発表した。津田大介氏ら3名が登壇する予定だったが電話が約100件寄せられ、「現在の状況では本来の趣旨に沿って開催できない」と判断したという。これについてジャーナリストの江川紹子氏はyahoo!に「神戸市に再考を促す~『電凸』で『言論・表現の自由』をやせ細らせないために」という文章を掲載した。この内容が、思わず首を捻ってしまうような代物である。

■神戸市に再考を促す、江川紹子氏の主張の流れ

江川紹子先生、それはないと思いますよ

 江川紹子氏の本文は概ね、このような流れになっている。

(1)抗議電話が多数あり、自民党市議が断固反対を公言していた。

(2)中止によって、津田氏らの発言の機会が失われ、トリエンナーレ事件の顛末を聞き出す絶好の機会が失われた。

(3)神戸市は津田氏らの発言の機会を奪い、話を聞きたい人の知る権利も損なった。

(4)神戸市は状況の変化に柔軟な対応をすべきだった。

(5)抗議電話で催しが潰れることが続けば、日本の言論・表現の自由がやせ細っていくことを懸念する。

(6)神戸市に再考を促す。

 神戸市の判断については、僕は詳細な事情が分からないが、津田大介氏が芸術監督として関わった展覧会が社会から大きな批判を浴びて、世間を騒がせてわずか3日で中止された直後という事情を考えれば至極真っ当なものであると思う。

 シンポジウムは「アート・プロジェクトKOBE2019 TRANS-」の関連行事だそうで、芸術を語るものなのかもしれない。しかし、会場に反対する人々が入ってきて津田大介氏への批判を始めたり、それに対する擁護の声が起きるなどすれば、本来の芸術に関するシンポジウムという趣旨から外れてしまう可能性は十分にある。

 それだけでなく、会場付近で反対運動も行われ、強行しようとする勢力と主催者との間で不測の事態が起きかねない。神戸市側としては安全に円滑にシンポジウムを開催する責務があるが、それが担保しきれない状況であれば中止するのは主催者として当然の判断である。

■発言の機会を失った津田大介氏、表現の機会まで失ったのか?

 これに対して、江川氏は(2)で津田氏らの発言の機会が奪われたと指摘する。それが何か問題なのか。シンポジウムでの発言の機会は失われたとしても、津田氏はSNSはもちろん、従来のメディアを使っての発言の機会は十分に持ち合わせているのである。そしてそれはシンポジウムより遥かに広範に伝播できる媒体と言っていい。

 神戸市は津田氏に対して「君の考えを一切、口にするな」と言っているのではないことに留意しなければならない。憲法学的に言えば「表現内容規制」ではなく「内容中立的規制」である。

 この内容中立的規制も「ある時・場所・方法での表現行為が極めて重要」という状況であるなら、規制することは簡単に許されるべきではないと考えることも必要とする考えもあるが、このシンポジウムに津田氏にとってそれだけ重要なものである事情は報道される限り、見出せない。別の場所、時間に言えば済むことであろう。

■江川紹子氏の言う「知る権利」とは何だ?

 さらに江川氏はシンポジウム中止によって「その話を聞きたい人の『知る権利』も損なってしまったことになる」としている。「知る権利」は、「要するに、この知る権利とは、政府保有の情報の開示を請求する権利であるということができ」(戸松秀典 「憲法」初版 P186)とあるように、江川氏が指摘するような場合を含むとは考えにくいし、そう考える人はほとんどいないであろう。

 法律用語を使うのであれば、正確に使わなければならない。あたかも神戸市が国民の憲法上の権利を侵害したかのように読める表現は、世論をミスリードするから絶対に控えなければならない。それ以前の問題として、言葉を使う前にそれを十分に調べることは、文章を書く者として最低限やらなければならない準備である。

 そして、仮にシンポジウムで話が聞きたい人が津田氏の話を聞けないということになったとしても、津田氏の発言の場はSNS等で確保されている以上、それらを利用して目的を達成することが可能である。つまり、江川氏の言う「知る権利も損なってしまった」という表現は、明らかに間違っている。

■芸術家が公権力に発表の場を請求する権利などない

 以前にも書いたが、公権力が芸術家による作品の発表を妨げることは許されないが、逆に芸術家が作品を発表するために公権力に作為を求める憲法上の権利などない。名古屋高裁金沢支部平成12年2月16日判決がその旨を明示し、最高裁でも確定している。

 今回のシンポジウムは芸術作品の発表ではないが、芸術家が表現の場を公権力に請求する権利がないのは同様であろう。公の場をどう運営するかは主催する公権力が様々な要素を検討して決定するものであり、個人の表現の自由や言論の自由がそれを常に凌駕するということではない。

 江川紹子氏1人の原稿を見て「日本のジャーナリズムはこの程度か」などと言う気はないが、彼女が高名なジャーナリストであることを思えば、何とも哀しい現実である。