予想通りの朝日新聞の社説である。「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が3日で展示中止になった件で、朝日新聞は8月6日付けの社説「あいち企画展 中止招いた社会の病理で展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長を攻撃した。これが何とも理解に苦しむ内容であるので紹介しよう。

■「絶対的に何をやってもええという自由ではない」になぜ反論しない

一体、朝日新聞は何と戦ってるのか(笑)

 朝日新聞のこの日の社説は「市長が独自の考えに基づいて作品の是非を判断し、圧力を加える。それは権力の乱用に他ならない。憲法が表現の自由を保障している趣旨を理解しない行いで、到底正当化できない。」と断じた。

 河村市長は「表現の自由は憲法21条に書いてありますが、絶対的に何をやってもええという自由ではありません」と8月5日の記者会見で述べている。これは表現の自由の限界を論じたもので、憲法における重要な論点の1つ。言論の自由について述べるなら、市長のこの部分への反論をしなければならないが、そこはスルーして自説を強調し、市長を「趣旨を理解しない」と批判している。

 市長の発言を本件にどう当てはめるかは考え方がいくつかあると思うが、個人的には名古屋高裁金沢支部判決平成12年2月16日にあるように「芸術家が作品を製作して発表することについて公権力がこれを妨げることは許されないが、公権力に対し、芸術家が自己の製作した作品を発表するための作為、たとえば、展覧会での展示、美術館による購入等を求める憲法上の権利を有するものではない」という部分が相当すると思う。

 展覧会での展示をするかどうかは主催者が最終決定権を持っており、作者や芸術監督という立場の人間が「展示しろ」と求める権利などない。主催者に近い立場の者が事前に作品を観る機会がなく、事後に見て「これは展示すべきではない」と判断して「展示をやめろ」と言うことが、判例の考えに照らせば「表現の自由を保障した憲法の趣旨を理解しない行い」ではないと思う。

 つまり、市長の「表現の自由は…絶対的に何をやってもええという自由ではありません」という主張は正しい。朝日新聞はここに反論できないから、決めつけ、レッテル貼りのような手法を用いているのであろう。

■河村たかし市長の表現の自由はどうなる?

 確かに朝日新聞が書いたように、「行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。その逆をゆく市長らの言動は、萎縮を招き、社会の活力を失わせるだけだ。」という、表現の自由の制約による副次的効果を心配する声は出てくるであろう。

 しかし、市長は芸術祭実行委員会の会長代行に過ぎず、実際に展示中止を決める権限があるのは大村秀章愛知県知事。その知事は市長の発言に対して「公権力を持った方が『この内容はいい』『この内容は悪い』と言うのはですね、これは憲法21条にいう検閲と取られても仕方がないんじゃないでしょうか」と、的外れな検閲論を持ち出しているものの、はっきりと「NO」の意思表示をしている。つまり市長には展示について実際の権限がない事実が示されている。

 そうなると朝日新聞の主張は「権限のない市長でも一定の地位にある者は自らの信条を語ってはいけない」ということになり、市長に対する言論の自由の封殺に他ならない。このような考えがまかり通るのであれば発言者が萎縮し、社会の活力を失わせることに気づかないのか。表現の自由を守れと主張する朝日新聞は、同時に表現の自由を制約を主張しているのである。

■朝日新聞が守りたかったのは表現の自由ではなかったという疑念

 津田大介氏が芸術監督になった経緯を僕は知らない。このレベルの人間が芸術監督になること自体、信じ難いことであるが、朝日新聞は「芸術監督は全権を持っているのだから、選任された者のコンセプトに異を唱えることは許されない」という趣旨のことを書いている。

 僕から見ればクレイジーな芸術監督のコンセプトに従えということ自体、クレイジー。朝日新聞の社説を読んでいると、彼らが守りたかったのは津田大介氏の反日コンセプトであり表現の自由などではなかったのではないかと感じられる。