名古屋市長の一手で愛知県知事は”詰み” 責任取れよ、検閲のわけないだろう!

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。
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 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」が3日間で展示中止になった件で、大村秀章愛知県知事と、河村たかし名古屋市長の対立が深まっている。その根本は知事の政治的失策にあり、それを市長が突くという構図である。追い詰められた知事は、東大法学部出身とは思えない法的知識の欠如ぶりを晒すことになり、市長の圧勝という情勢になっている。法的観点から見ると両者の対立は実に趣深い。

■「事後検閲だってある」「事後検閲って何ですか、それ?」

事後検閲って…(苦笑)

 発端は8月2日、市長が「表現の不自由展・その後」を視察後に「日本人の、国民の心を踏みにじるものだね」と話し、展示中止の抗議文を愛知県知事に出したことにある。これに対して知事は8月3日、「安全な運営が危惧される」として展示を中止した。

 8月5日になって知事は記者会見で「公権力を持った方が『この内容はいい』『この内容は悪い』と言うのはですね、これは憲法21条にいう検閲と取られても仕方がないんじゃないでしょうか。事後検閲だってありますからね。まさにやめろと言っているのですから」などと発言して、市長を批判した。これを受けて市長は「事後検閲って何ですか、それ? それならああいう展示はいいんだということを堂々と言われてくださいよ。最低限の規制は必要でしょ」などと反論した。

 知事は展示については表現の自由として認めるべきであり、中止したのは安全上の問題であるという考えを貫き通している。これは、いわゆる天皇コラージュ事件の判決(名古屋高裁金沢支部判決平成12年2月16日)に基づくものであろう。そのことで「自分は表現の自由を制約する政治家ではなく、不当な制約もしていない」とアピールしたいに違いない。そのため河村市長の発言は表現の自由を制約する検閲にあたるとして、表現内容を理由に中止するのは許されないし、自分はそういうことをしていないことを強調したと考えるのが通常の思考である。

■東大法学部卒の大村知事の信じ難い論理

 この知事の主張は法的に考えると苦しい。何より、検閲というものが分かっていない。検閲とは「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止すること」(最高裁大法廷判決昭和59年12月12日)と明確にされている。

 まず、今回の展示物が「思想内容等の表現物」と言えるかどうかが疑問であるし、仮にそれに含めるとしても、発表を事前に禁止することが検閲であるから、既に発表された表現物の展示を中止させる行為は検閲には当たらない。

 この点について知事は「事後検閲もあるでしょ?」と言っているが、上記の定義から事後検閲は検閲ではない。市長が記者会見ですかさず「事後検閲って何ですか?」と発言したのは、それが分かっているからであろう。

■知事VS市長、法的論点を整理すれば「表現の自由の限界」

 そうすると、知事による「市長の発言は検閲にあたる」という主張は全く認められないことになる。名古屋市長の発言や行為が憲法21条2項の検閲の問題になることはあり得ない。

 2人の間の論点は法的には「表現の自由の限界として、展示を中止することが認められるかどうか」という点に整理できる。だからこそ、市長は「ああいう展示はいいんだということを、堂々と言われてくださいよ」と21条1項を語れとしたに違いない。

 知事はその議論から逃れるために21条2項を持ち出したのであろう。それで不勉強なメディアは騙せると思ったのかもしれないし、あるいは自分こそが不勉強だったのかもしれない。検閲に関する最高裁判例は昭和59年のものであり、昭和57年に東大を卒業している知事は大学では教わっていない判例である。

■愛知県知事は詰みの状態、潔く責任を取るべき

 この一連の知事と市長のやり取りは、市長に軍配があがると僕は思う。知事は政治家として信念に基づいて「反日的、天皇を侮辱する表現の自由を守る」と言えばいい。それを言わずに安全上の問題、検閲の問題に逃げようとして、自らの不勉強ぶりを晒してしまったということである。

 もし「反日的、天皇を侮辱する作品でも、表現の自由を守る」と言えば、次の選挙は負ける可能性が大きい。かといって「その表現は適切ではない」と発言すれば「そもそも実行委員会の会長として展示を認めた責任を取れ」ということになってしまう。詰みの状態である。

 そうなると主張すべきは「安全上の管理で中止した」「表現の自由は守った」「自分は表現を認めた者としての責任はない」ということで、市長の要求する表現の自由の限界の議論から逃げるしかないというわけである。責任回避、保身という言葉が今の知事にはピッタリである。

 ここからは僕の想像だが、知事は津田大介氏がここまでおかしな人間とは知らずに、周囲からの勧めで安易に芸術監督を任せたのではないかと思う。それがこの騒ぎになってしまい、慌てて事態の沈静化に動き出したということではないだろうか。

 僕が知事なら、もう少しまともな人間を芸術監督に選ぶが、大村知事もよほど忙しかったのであろう。それも知事の責任ではあるから、是非とも現場を混乱させ、世間を騒がせたことに対して責任を取っていただきたいものである。

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