高校野球の地方予選が沖縄で始まっているが、この季節になると思い出すのが昭和50年(1975)の上尾高校の夏の大会の4強進出である。その時のエースの今太投手が昨年5月の朝日新聞で取材に応えているのを、先日、たまたま目にした。その年の上尾高校の甲子園での戦いは、すべて1点差の息詰まる熱戦ばかりだった。

2回戦 5-4小倉南

3回戦 4-3土 佐

準々決勝5-4東海大相模

準決勝 5-6新居浜商

 当時、僕は中学3年生。その頃の僕たちのイメージでは埼玉県は何をやってもダメな県で、劣等感の塊のような県民だったように思う。甲子園も山梨県と代表の座をかけて争い負けることが多く、本大会は他県の戦いを客観的な第三者として見ることの方が多かった。

思い出の今太投手

 昭和50年、埼玉大会が独立して最初の大会で甲子園に出場したのが上尾高校。2回戦からの登場で小倉南に0-4で負けていた試合をひっくり返して勝つと、野球王国の1つだった高知県の土佐高校を破り、さらに準々決勝では原辰徳擁する東海大相模に勝って準決勝に進出したのである。負けるのがデフォルトの埼玉代表があれよあれよと勝ち進んでベスト4。

 「埼玉の高校でも、こんなに勝てるんだ!」

 当時の上尾高校はそんな思いを我々に伝えてくれた。僕は小倉南の試合からテレビの前に釘付けで、土佐、東海大相模の試合はテレビの前で正座をして応援していた。当時のメンバーは今太に中村、塚原、岩崎…今でも名前が結構出てくる。

 準々決勝まで自宅のテレビで見て、東海大相模に勝った翌日、愛知にある親戚の家に1人で旅行に行き織田信長関連の城巡りをした。出発の日、駅でスポニチを勝ったら上尾高校が1面。その時の見出し「逆転 金星 上尾マーチ」は今でも忘れられない。翌日、準決勝で新居浜商に負けて甲子園を去り、本当に悔しい思いをした。というか、今でも悔しい。

 あの時の上尾高校は多くの埼玉県民に夢と希望を与えた。大会終了後、中学の同級生がアサヒグラフの甲子園特集号を買ってきて、学校で見せてくれた。上尾ー東海大相模の試合は原辰徳の写真ばかりで、上尾高校の写真はほんのわずか。「負けた方ばかり扱うって、何なんだよ朝日新聞!」と、友人と文句を言ったものである。

 その時の今太さんが昨年5月に朝日新聞の記事に出ていた。人の良さそうなおじさんになっていた。笑顔でボールを持つ姿に(きっといい人生を送ってきたのだろうな)と感じさせられる。少年だった僕の心をアツくしてくれたヒーローが、今でも元気に取材に応えている姿はうれしいもの。

 実は僕の母校・熊谷高校は甲子園に3回出場し、昭和26年(1951)に準優勝している。昭和57年(1982)には僕の担任をしてくださった石川孝雄先生が監督としてチームを率いて3度目の出場を果たし、大学生だった僕は甲子園に応援に駆けつけた。当時の甲子園は僕にとって今とは比べものにならないほど、アツい戦いを繰り広げていたのである。そのような時代にあっても、僕が一番熱くなったのは昭和50年の上尾高校であるのは間違いない。「上尾高校」という名前を聞くだけで気分は中学生最後の夏休みに戻ってしまう。