久しぶりに朝日新聞の社説について論じてみよう。昨日5月2日に掲載された「阪神支局事件 危うい『反日』の氾濫」。

 その主張を簡単に説明する。1987年に朝日新聞阪神支局の小尻知博記者(当時29)が殺害され、犬飼兵衛記者(当時42)が重傷を負わされる襲撃事件が発生。その時の赤報隊を名乗る犯行声明文に「反日分子には極刑あるのみ」とあり、さらに同年に発生した朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件では「反日朝日は 五十年前にかえれ」とあった。そのような事件に使われた「反日」という言葉が今、当たり前のようにインターネットやマスメディアに氾濫している。それによって安易にレッテルを貼り、発言自体を封じ込めて排除しようとする危うさを秘めているというのである。そして最後にこのように書いている。

朝日新聞の焦りが見える社説

 「国籍やルーツ、思想・信条などの違いを超えて、一人ひとりが互いに相手の考えを尊重しつつ、意見を交わす。日本国憲法が目指すそうした社会を、市民とともに作っていく。報道機関としての決意を新たにする。」

 この社説が一定の説得力を発揮するのは、「反日」という言葉を使ったのが赤報隊という、許しがたいテロリストであったという動かしがたい事実による。一読した読者は、「ネットで『反日』と相手を非難する人は狂気のテロリストと同じ精神構造なのだろう」と感じてしまうかもしれない(読者はそれほどバカではないだろうが)。

 しかし、これこそまさに朝日新聞が言っている「安易にレッテルを貼り」という手法ではないか。確かにネットにもマスメディアにも、相手を「反日」と呼ぶ人々は少なくない。しかし、そうした人々が全て赤報隊のような対立する言論の主を射殺して封じ込めるべきであるなどと考えているわけではない。というより、そのようなテロリストに賛同する人など、ほとんどいないと思う。

 ではなぜ、定義が曖昧なまま「反日」というワードが使われるのか。これは朝日新聞などの一部のメディアやそれに賛同する政治家、市民と称する人々の共通項として、政権や自国に対する論理性を欠いた攻撃を行い、時に世論をミスリードし、あるいは自国民を挑発するような言動があり、その特徴、思想的背景を最大公約数的に述べるワードが「反日」だからであろう。

 政治的主張に対してメディアに反論するツールを持ち得なかった人々が、ネットという新しいメディアを通じて、朝日新聞などの旧媒体に対して言論で対抗しているというのが、正確な分析であると思う。それはテロリズムや言論の封殺などとは対極にある。

 そのような言論の場ができたことは、まさに「国籍やルーツ、思想・信条などの違いを超えて、一人ひとりが互いに相手の考えを尊重しつつ、意見を交わす。日本国憲法が目指すそうした社会」が実現しつつあることではないか。一部メディアが独占的に国民世論のようなものを形成させていた昭和の時代とは異なり、誰もが自由にものを言える時代になった今の時代を僕は好ましく思う。メディアの最大の権威・権力だった朝日新聞が市民の声で、その化けの皮を剥がされたという点においてインターネットが果たした役割はとてつもなく大きい。今、朝日新聞が猛烈な勢いで部数を減らしているのは、それと無縁ではあるまい。

 このような時代の趨勢に抗するため、反対勢力に「反日でレッテル貼りする連中」とレッテル貼りをしているのがこの日の社説であろう。それに説得力を持たせるために阪神支局襲撃事件を持ち出しているようにしか思えない。非業の死を遂げた記者のためにも、言論機関として正気に戻るように、朝日新聞には申し上げたい。