1月17日は、阪神淡路大震災があった日。1995年1月17日から24年、今も記憶に鮮明な大震災について、振り返ってみる。音声データはこちら

 地震の前日の1995年1月16日、月曜日。僕は京都にいた。当時、日刊スポーツ新聞社レース部に所属し、京都競馬のG3平安ステークスの取材をしていた。この平安ステークスは新設重賞で僕が取材した時はまだ第2回。勝ったのは単勝2番人気のライブリマウント。京都競馬場のゴールは記者席から追いかけるような形で見るが、「ああ、ライブリマウントが勝ったな」と特に何の感慨もなく、夕暮れ迫る時間帯独特の一抹の物悲しさを感じつつ見ていたのを妙に覚えている。

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 1月の中央競馬は、クラシックや秋のG1シーズンとは全く別物で、盛り上がりは今ひとつなのは確か。僕も(早く仕事を終わらせて、家に帰ろう)と淡々と仕事をこなしていたのを覚えている。ただ、仕事をしていて、あの時のような物悲しさを感じたことはなく、今でも(あの感覚は何だったのかな)と思う。

 翌日の早朝、僕は実家の両親からの電話で起こされた。両親は僕が関西に出張に行っていたことを知っており、心配になって電話をかけてきたのである。事情が分からない僕は言われるままテレビをつけ、倒れた高速道路や倒壊した駅舎などを見て唖然呆然。しばらくして(僕は10時間も前ぐらいまで関西エリアにいたんだ)と背筋が寒くなるような思いがした。

 僕と入れ替わりで関西に出張に行った記者は滋賀県の栗東トレーニングセンターに宿泊していたが、早朝の激しい揺れのため飛び起きて布団をかぶっていたと聞く。産経スポーツの先輩の記者は(せっかく京都に来たのだから)と一泊したところ、地震に遭い、名古屋までタクシーで戻り、そこから新幹線に乗ったと聞いた。

 僕は幸いにも難を逃れたが、大震災で特に印象に残っているのは、地震で傾いた団地に取材に行ったテレビのレポーターの振る舞い。倒れた団地の建物に閉じ込められ、トイレの小さな窓から顔を出している中年の女性に、若い男性がマイクを向けて話を聞いていた。色々聞いた挙句、最後に「間も無く救助が来ると思うので頑張ってください」という感じでまとめた。思わず画面に向かってこう言った。

「まず、助けろよ!」。

 いつ倒れるか分からない団地の中に中年女性が閉じ込められているわけで、窓の周囲を少し壊せば、あるいは壊さないでも女性を引っ張り出せば救出できるかもしれないのに、そのレポーターは「揺れはどうでした?」などとマイクを向けているのである。はっきり言ってクレージーだろう! 記者、レポーターの前に人間であって、生命の危機にある人を目の前にして、取材を優先するなど人間の行為として許されるわけがない。

 その後の東日本大震災、熊本地震などでも現場での報道のあり方には多くの批判が寄せられた。関西のテレビ局の自動車がガソリンスタンドの給油を待つ自動車の列に割り込んだとか、現地取材の記者が避難所の人たちの食事を「僕も入手しました」とブログにアップしたとか、もう人として許されないことが平然と行われている。

 阪神淡路大震災から24年、犠牲になった方へあらためてご冥福を祈るとともに、報道のあり方というものを僕なりに考えてみたいと思っている。