沖縄タイムスの阿部岳記者の記事が「AERAdot.」に掲載されている。2017年12月12日に産経新聞が掲載した「日本人救った米兵 沖縄2紙は黙殺」という記事が全くの誤りであったことに関して、その取材姿勢、報道姿勢を厳しく批判する内容。

産経新聞大誤報の真相「つぶすからな」取材もせず沖縄タイムス記者を恫喝

阿部岳記者の記事は詐術?

記事の中身は後に1か月の出勤停止処分を受けた産経新聞の当時の那覇支局長の高木桂一氏との接点、やりとりを中心に記述が進んでいる。産経新聞はメディアの基本である「取材して書く」ということができていないという結論で、それが誤報の真相と言いたいのであろう。

記事を一言で表現すれば「敵失に乗じて、非論理的・合理性を欠く攻撃をしている」といった印象。一読すると産経新聞の誤報という動かない事実があるから、阿部岳記者の産経攻撃に根拠があるように見えてしまうという、筆者に言わせれば「詐術」のような文章である。

ちなみに筆者は阿部岳記者に関しては結構、この場でも書いているので、参考にしてほしい。

民主主義が勝ち、阿部岳記者が敗北したことに気づいてほしい

沖縄タイムス阿部岳記者、楽でいいね

問題の記事の経緯から高木桂一氏との”因縁”に言及

まずは記事の流れを紹介しよう。産経新聞の問題の記事に関する経緯の後に、阿部岳記者と高木桂一氏との因縁に関する部分へと続いていく。

a)2017年10月、作家の百田尚樹氏が沖縄で講演、その中で百田氏は私(阿部岳記者)を名指しして嘲笑を続けた。

b)百田氏と主催者は私を敵視しているのは明らかだが取材した。なぜなら「公平に近づくための努力であり、メディアの鉄則であり、記者の基本動作」だから。

c)その場に高木氏はいたらしい。産経ウェブ版に出た記事は私の取材姿勢を「『差別発言ありき』で、『百田氏はヘイトスピーカーだ』というレッテルを張り、バッシング報道を展開する魂胆があったと受け取れた」というものだった。

d)私は百田氏を取材したが、高木氏は私に取材をしていない。

e)私は高木氏に直接電話をして、なぜ声を掛けてくれなかったのかを聞くと、話の中で、何の脈略もなく罵声を浴びせられた。「つぶすからな」「ヘビみたいな男だ」。

f)産経新聞社広報部に問い合わせると「(百田氏講演会の)傍聴記だったため直接の取材は控えましたが、今後は可能な限り取材に努めます」との回答があった。

g)「可能な限り取材する」のはメディアとして当然だが、産経新聞はそれが欠落していた。問題の記事もそうだし、私に関する記事も同じだ。

阿部岳記者の「大誤報の真相」の危ういロジック

ここで阿部岳記者が持ち出したロジックは「産経新聞は取材をせずに書く新聞である。それは米兵に関する記事だけでなく、私に対する記事でも同じだった。メディアとして当然のことができていない」というもので、それが「大誤報の真相」と位置付けているように読める。阿部岳記者のいう「大誤報の真相」は「産経新聞はメディアの基本である取材をしない新聞である」というレッテル貼りの一種にすぎないように、筆者には思える。そのレッテル貼りの根拠は以下のように主張されている。

(1)米兵問題の記事で、産経新聞は取材せずに記事化することで誤報を伝えた

(2)取材しないのは百田氏の講演の時も同じで(1)だけではない

(3)産経新聞に問い合わせると「今後は可能な限り取材する」と、取材をしていない事実を認めた

何度も指摘するように(1)は100%確定した事実である。問題は(2)以後。百田氏の講演の時に高木氏は取材する必要があったのか、そもそも本当に取材をしていないのかというのが大問題である。

阿部岳記者の文章によると高木桂一氏は阿部岳記者の取材姿勢を百田氏への「バッシング報道を展開する魂胆があったと受け取れた」と書いているのである。百田氏と阿部岳記者とのやり取りを直接見たかどうかは明らかではないが「阿部記者の取材する様子を見て、自分にはこう感じられた」という文章であれば、当事者に直接、話を聞く必要はない。見たままの印象を自分の見解として書くだけの話である。

阿部岳記者の記事を見る限り、高木氏は自分の目で見た事象に対して、個人の見解を記事化しただけ。阿部記者も百田氏が基地反対派に対する偏見、中国や韓国に対する差別を持っていると講演の中で感じたのであれば、その具体的な発言を根拠に「私にはそう感じられた」と書けばいい。別に百田氏に確認する必要などない。

それゆえ「高木氏は取材をしていない」という指摘は誤っている。百田氏と阿部記者のやり取りを直接見ていれば、それは取材を行なっていることである。その様子は我那覇真子氏が録画してネットでも簡単に内容を把握できる。そうした事実を見て聴いた後、発言者の真意を確認する必要等があると感じれば本人に直接聞くのもいいだろうが、それが絶対に必要という訳ではない。

なぜなら、本人の内心は本人以外に知る由もなく、表に出てきた言動からそれを推認するしかなく、それで十分だからである。つまり客観的事実を伝える場合には確認のため本人に直接取材する必要が生じる場合もあるが、自己の見解を伝える場合には、本人への直接取材は必ずしも必要ではない。これは記者、メディアの基本中の基本である。

「詐術」のような文章の仕掛け、勝てば官軍

それを「自分(阿部岳記者)は百田氏に直接話を聞いた、高木氏は私に話を聞いていない」=「高木氏は取材をしていない」と断じているのは、事実の評価の明白な誤りである。

そうすると(3)に示した産経新聞の回答「可能な限り取材をする」の真意は、赤字で示した部分、つまり「必要であれば聞く」という部分なのは明らかで、「必要でもない場面でも取材をする」とは言っていないし、それは当然である。この点をとらえて阿部岳記者は「産経新聞はメディアの基本の取材をしない新聞」と批判しているのである。自分は取材に必ずしも必要ではない取材をした、産経新聞は取材をしていないという結論。

この結論が合理性を欠いているのは明らかであろう。具体的に見て見ると以下である。

米兵問題=直接話を聞かなければならない(客観的事実の確認だから)

百田氏の講演=直接話を聞く必要はない(自己の見解だから)

この2つについて「直接話を聞いていない=取材をしていない」とひとまとめにして、(3)の産経新聞の回答をその裏付けとしているのである。事実、産経新聞は百田氏の記事について「傍聴記だったため直接の取材は控えましたが」と断っている。それはまさに「直接の取材は必要ない」ということであると考えられる。ところが読者は米兵問題で産経新聞が謝罪していることから、百田氏の問題も何となく阿部岳記者の言うことが正しいのだろうと思ってしまう。

これが冒頭に書いた「詐術」のような文章の仕掛けである。こうした手法は色々なメディアで目にすることはある。敗れた相手が何も言えない状況を利用して、チョロっと根拠のない主張を混ぜて、押し通してしまう「勝てば官軍」的な手法と言えるかもしれない。

なぜ、阿部岳記者は必要のない場所に取材をするのか

ここからは筆者の推測である。日頃、阿部岳記者が批判されているのは「客観報道ではなく、政治的プロパガンダと同様の記事を書くこと」というものであると筆者は思っているし、そう思っている人は少なくないだろう。

阿部岳記者は、そうした批判に対する反論として「自分は自分を敵視する相手にも取材しています」とアリバイをつくり「だから公平な記事だ」と主張する根拠としているのではないかと思う。