さあ、今日12月25日も朝日新聞の社説を見てみよう。「学校と指導死 奄美の悲劇から学ぶ」というタイトル。

 分かりにくいタイトルである。そもそも指導死という聞きなれない言葉は何を意味するのか。内容を簡単に説明しよう。鹿児島県奄美市で3年前に中学1年生の男子が自殺した。いじめに加わったと担任の教師に疑われて家庭訪問を受けた直後の死だったとされ、市の第三者委員会は、いじめといえる言動はなく誤解に基づくものだったと結論づけたという。

薄弱な根拠の上に身勝手な主張の朝日新聞

 こうした教師の一方的な指導に追い詰められての死を、遺族は「指導死」と呼ぶとか。教育評論家の武田さち子さんの調べでは、この30年間に全国の小中高校で未遂を含め少なくとも76件起きているという。朝日新聞はこうした事情を踏まえ、こう書いている。「改めて思うのは『性悪説』に基づく指導の危うさだ」。

 性悪説という表現には違和感を覚える。性悪説とは、中国の思想家の荀子が唱えたもので広辞苑によると「人間は欲望を持つため、その本性は悪であるとして礼法による秩序維持を重んじた」と説明されている。僕がおかしいと思うのは、今回問題になった事件で、当該担任がそう考えていた、それに基づいて指導したかは分からないということである。そもそも性悪説に基づいて指導をしている学校や教員が多数存在するかどうかも分からない。本件は、ただ単に冤罪であったということで当該担任の調査能力、判断能力不足の可能性も十分に考えられる。なぜ、性悪説を持ち出してくるのか、最初からバイアスがかかったような社説だと思う。

 この問題に関する市の第三者委員会の報告書では「生徒の指導から支援へと発想の転換」を促しているらしく、朝日新聞もその言葉は重いとして賛同している。しかし、言葉は美しいが、それではいじめが実際に行われている時に、指導より支援なのかという問題になる。実際に教員が強い指導力を発揮しなければならない場面はあるはずで、中学校では実際に少年法に抵触するケースもある。

 本質的なことを言えば、教員も人間であるから誤った指導をすることもある。その誤った指導をなくすことが先決。ここで考えてほしいのは、本件のような冤罪は生徒に苦痛を与えるだろうが、それによって命を絶つ判断をしたのは生徒だということである。普通に考えれば「死ぬようなことなのかな」という気がするし、こういう時こそ、家族や周囲が力を合わせて冤罪を晴らすことに尽力する必要があるわけで、生徒が死を選択したことにまで当該担任にすべて責任が及ぶかと言われれば、それは疑問が残る。これは大変な悲劇であろうが、そうした悲劇が繰り返される可能性までも常に考慮して指導しろというのであれば、現場で指導などできない。

 そもそも実際に指導死と呼ばれるものは統計はなく、一教育評論家の調べで30年間で未遂を含めて少なくとも76件ということである。つまり、このデータが正しいかどうかも分からないし、問題の事件が指導死と言えるものなのかも判然としない部分はある。そして30年間で未遂を含め76件ということは非常にレアケース。こうした根拠が薄弱な数字をベースに、教育の指導そのものを考え直せと主張するのは現場の状況を知らない人間が机上の空論を語っているだけにしか思えない。

 もう少し客観性、合理性を持った主張ができないものか。この日の社説は牽強付会という言葉がぴったりくる。